しかし、この良好な関係は長続きしませんでした。開化政策に反対する勢力が国王の父であった大院君(だいいんくん)のもとに集まって、明治15(1882)年に大院君がクーデターを起こし、同時に朝鮮の日本公使館が朝鮮人の兵士に襲われ、館員らが殺されました。これを「壬午(じんご)事変」または「壬午軍乱」といいます。
この事件をきっかけに我が国が朝鮮へ出兵すると、清国も同時に派兵しましたが、我が国が朝鮮側と賠償などを取り決めた済物浦(さいもっぽ)条約を結んだことで武力衝突は回避されました。我が国は武力に頼らずに話し合いで解決しようとしたのですが、この姿勢が「日本は清国に比べて弱腰だ」とみなされたこともあり、この後の朝鮮国内では、我が国よりも清国に頼ろうとする事大派(じだいは)の勢力が強くなりました。
さて、壬午事変の際に、朝鮮の兵士が国際法上で我が国の管轄となる日本の公使館に危害を加えたことは、国際的にも大きな問題でした。朝鮮は謝罪の使者として金玉均(きんぎょくきん)らを我が国に派遣しましたが、そこで彼らが見たのは、自国とは比べものにならないほど近代的に発展した我が国の姿でした。金玉均らは、我が国がおよそ10年前に派遣した使節団が、欧米列強の発展に驚いたのと同じ思いを抱いたのです。
※下記の映像は3月6日までの掲載分をまとめたものです。
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