琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢関係を続けていました。しかし、幕府が倒れて薩摩藩が設立に加わった明治新政府が誕生したことで、政府は琉球を日本の領土として組み入れることを決意し、明治4(1871)年の廃藩置県の際に、琉球を鹿児島県の一部として編入しました。
一旦(いったん)は琉球を我が国の領土とした政府でしたが、朝鮮と同じように琉球を属国とみなしてきた清国が強硬に抗議してくるのは明らかでした。そこで、政府は明治5(1872)年に新たに「琉球藩」を設置して、国王の尚泰(しょうたい)を藩主とし、また、かつての我が国の藩主と同じく華族(かぞく)の身分とさせました。
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する、清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に、日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。
※下記の映像は2月14日までの掲載分をまとめたものです。
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