ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。
その後の使節団は、その目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも、内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。
そんな折、西郷隆盛(さいごうたかもり)を中心とする「留守政府」が、外交面を中心に大きな動き(詳細は後述します)を見せていたことを知った一行は、予定を変更して、明治6(1873)年9月に急いで帰国しました。
なお、岩倉使節団には多くの留学生が随行しており、その中には、後に女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立した、当時8歳の津田梅子(つだうめこ)の姿もありました。
※下記の映像は2月14日までの掲載分をまとめたものです。
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