定信は自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは、当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨んでいました。そのこともあったからなのか、定信は自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策を、ことごとく打ち切りにしてしまったのです。
また寛政3(1791)年には、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が、我が国における海岸防備の必要性を説いた「海国兵談(かいこくへいだん)」を著しましたが、定信は「世間を騒がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。それを思えば、海国兵談の発禁処分は、定信による「痛恨の失政」でした。意次の進めた政策とは正反対となった定信の消極策によって、我が国は再び門戸(もんこ)を固く閉ざすようになってしまったのです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。
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