一揆や打ちこわしが多発する殺伐(さつばつ)とした世が続くなかで、意次の身にさらに悲劇が起きました。息子で若年寄(わかどしより)の田沼意知(たぬまおきとも)が、天明4(1784)年に江戸城内で襲撃を受けて死亡したのです。
意次の悲劇はさらに続き、後ろ盾(だて)となっていた将軍家治が天明6(1786)年に死去すると、政治に対する非難が殺到していた意次は老中を辞めさせられ、失意のうちに天明8(1788)年に亡くなりました。
そして、15歳で11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)を補佐するかたちで、意次にかわって天明7(1787)年に老中となったのが、松平定信(まつだいらさだのぶ)だったのです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。
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