意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前藩に経営を任せていた蝦夷地の直轄を計画しました。天明(てんめい)5(1785)年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また意次は、アイヌの生活の向上を目指して、農作業を教えようとまで計画するなど、アイヌの自立も目指していました。これは、アイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支えるサケや毛皮などをとって来なくなるからという、松前藩の身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは、全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながしたことで、吉宗によってまかれたタネが、意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。
しかし、自主的な開国へ向けての希望は、儚(はかな)く砕(くだ)け散ってしまいました。なぜなら、意次自身が失脚を余儀(よぎ)なくされてしまったからです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。
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