また、先述のとおり、当時のオランダや清国との貿易に際して、幕府は金銀で支払っていたのですが、長年の貿易の結果として大量の金銀が流出していたため、白石は正徳5(1715)年に年間の貿易を制限しました。これを「海舶互市新例(かいはくごししんれい、別名を長崎新令または正徳新令)」といいます。
次に、朝鮮通信使に対するこれまでの待遇が丁重(ていちょう)過ぎたと感じていた白石は、家宣の将軍就任の慶賀を目的に新たな通信使が我が国に派遣されてきた際に、その処遇を簡素化するとともに、それまでの朝鮮からの国書に「日本国大君殿下(たいくんでんか)」と書かれていたのを「日本国王」と改めさせました。
これらは、一国を代表する権力者である将軍の地位を明確にする意味が込められていましたが、同時に将軍と皇室との関係において、将軍家の地位を下げる結果ももたらしていました。なぜなら「国王」は「皇帝=天皇」よりも格下と考えることも可能だったからです。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。
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