しかし、信綱の動きを察した肥前藩(=佐賀藩)の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜け駆(が)けをしたために、一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を出してしまいました。
一方の一揆勢も壊滅(かいめつ)状態となって、天草四郎が討ち取られるなど、ほとんどが殺害されました。こうして島原の乱はようやく鎮圧されましたが、幕府が受けたダメージはかなり大きなものがありました。
なお、乱後に松倉勝家は領地を没収されただけでなく、大名としては異例の斬首刑に処せられ、寺沢堅高は唐津藩の領地のうち天草領を没収されると、ショックを受けたのか後に自害して、寺沢家は御家断絶になりました。また、抜け駆けした鍋島勝茂も罰を受けています。
大名への斬首刑など厳しい処罰を行ったということは、それだけ幕府が島原の乱が起きたことに大きな衝撃を受けていたということであり、この後、幕府はますますキリスト教(=カトリック)への弾圧を強めることになりました。
※下記の映像は12月18日までの掲載分をまとめたものです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。