当時の貿易の主な輸入品は、チャイナで生産された生糸(きいと)でしたが、マカオを拠点(きょてん)とするポルトガル商人が、生糸を長崎に持ち込んで巨利を得ていました。この事態を重く見た幕府は、慶長9(1604)年に「糸割符(いとわっぷ)制度」を設けて、糸割符仲間と呼ばれた京都・堺・長崎・江戸・大坂の五ヵ所商人に一括して購入させることで、生糸の価格を抑制(よくせい)しました。
ちなみに、輸出品は石見(いわみ)銀山や生野(いくの)銀山などから、当時の我が国で豊富に産出していた銀が中心でした。なお、当時の我が国の銀の輸出高は、世界の銀の産出高の3分の1にも及びました。
朱印船貿易が盛んになると、海外に移住する日本人も増加し、東南アジアの各地で、数百人から数千人の日本人が日本町(にほんまち)をつくりました。また日本人の中には、山田長政(やまだながまさ)のように、アユタヤ朝(現在のタイ)の王室に重く用いられ、後に六昆(りくこん、別名をリゴール)の太守にまで出世した者も現れました。
※下記の映像は12月18日までの掲載分をまとめたものです。
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