そんな折の慶長(けいちょう)5(1600)年、オランダ船のリーフデ号が豊後(ぶんご、現在の大分県の大部分)に漂着(ひょうちゃく、ただよい流れて岸に着くこと)した際に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわって天下統一をめざしていた徳川家康(とくがわいえやす)は、リーフデ号の航海士であるオランダ人のヤン=ヨーステンと、イギリス人の水先案内人(=波や水深など湾や港特有の専門知識を持ち、出入りする船に乗り込んで安全に航行させる職種のこと)であるウィリアム=アダムスを江戸に招き、彼らを外交や貿易の顧問(こもん)として、両国との貿易をめざしました。
つまり、江戸時代の初期において、家康は外国との貿易を積極的に行おうとしていたのです。ちなみにウィリアム=アダムスは日本名で三浦按針(みうらあんじん)、ヤン=ヨーステンは耶楊子(やようす)となり、ヤン=ヨーステンが家康から与えられていた屋敷の場所は、彼の名前から、現在の「八重洲(やえす)」と呼ばれるようになりました。
イギリスは1600年、オランダは1602年とほぼ同時期に東インド会社を設立し、東アジアに進出して東洋での貿易に乗り出しました。また両国は、カトリックではなくプロテスタントであったことや、イギリス人やオランダ人が紅毛人(こうもうじん)と呼ばれていたという共通点がありました。
※下記の映像は12月18日までの掲載分をまとめたものです。
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