このうち、江戸の上野では彰義隊(しょうぎたい)が結成され、寛永寺に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が明治元(1868)年旧暦5月15日に総攻撃を加えました。これを上野戦争といいます。
戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単には決着しないと思われましたが、新政府軍が肥前佐賀藩(ひぜんさがはん)の所有するアームストロング砲などの最新兵器を活用したことで、戦いは一日で終わり、彰義隊は壊滅しました。
鳥羽・伏見の戦いと同様に、最新兵器の能力の高さを思い知らされる戦争となりましたが、敗れた彰義隊の残存兵力は東北地方などへ落ちのび、戦いはさらに続くことになりました。
なお、上野から少し離れた現在の東京都港区浜松町で、慶應義塾(けいおうぎじゅく)を開いていた福沢諭吉(ふくざわゆきち)が、遠くから聞こえてくる戦争の轟音(ごうおん)が響くなかでも、平然と自ら講義を続けていたというエピソードが残っています。
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