江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、明治元(1868)年旧暦3月9日に、官軍参謀の西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見させました。山岡は勝の手紙を西郷へ渡して、朝廷に取り計らうよう依頼しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突き付けました。
西郷の条件は、江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは、「徳川慶喜の身柄を備前藩(びぜんはん)に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも、絶対に受けいれられなかったのです。
(※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください)
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。