ところが、幕末の頃の水戸学は、「主君としてふさわしいのは、幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室である」とし、また欧米列強からのいわゆる外圧に対してはこれを排除すべきであるとする、いわゆる「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の考えが中心となっていました。
慶喜も当然のように水戸学を学んでおり、徳川家の将軍でありながら、皇室を尊敬する学問を幼い頃から身に付けていたため、自らが朝敵となることが、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも、絶対に認められないことだったのです。
こうした慶喜の姿勢が、一般的には「弱腰」と見なされることが多いのですが、逆から見れば、慶喜が朝廷と争わずに謹慎したからこそ、徳川家が滅ぼされることもなければ、欧米列強の介入を招くこともなく、また、後述するように、江戸の町を戦火にさらすことを防ぐこともできたのでした。
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