加えて、秀次やその一族を処刑したことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となり、いかに実子の秀頼が存在するとはいえ、成人した親族が一人もいなくなったことが、豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。
秀吉は1598年に病気のため死の床に就(つ)きましたが、彼の実子である秀頼はまだ6歳と幼少だったこともあり、家康などに秀頼の行末(ゆくすえ)を依頼する直筆の書状が残されています。
間もなく秀吉は「露(つゆ)と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは 夢のまた夢」という辞世を残して62歳でこの世を去りましたが、秀頼と豊臣家の将来を託された際に、笑顔で応えた家康は内心でこう思っていました。
「太閤殿、貴殿が織田家に対してそうなさったように、今度は自分が豊臣家を出し抜いて天下を取る番ですな」。
※下記の映像は11月14日までの掲載分をまとめたものです。
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