そして1595年、秀吉から謀反(むほん)の疑いをかけられた秀次は高野山に入って出家しましたが、その後に切腹を命じられ、また秀次の女子供を含む一族郎党の39人が京都で処刑されました。
それまでの「人たらし」の面影が微塵(みじん)も感じられない、秀吉による冷酷な行動は、我が子可愛さからきたものであると同時に、独裁者となったことで、彼の猜疑心(さいぎしん、相手の行為などを疑ったりねたんだりする気持ちのこと)が強くなったことが理由であるとされています。
確かに秀吉の行為は、同じく独裁者となった信長の晩年と共通するところが見受けられますが、いずれにせよ、秀次一族の虐殺が、実は豊臣家のその後の運命を決定づけてしまったのです。
※下記の映像は11月14日までの掲載分をまとめたものです。
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