吉野に到着された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物であると宣言されて、新たに朝廷を開かれた後、1339年に崩御されました。かくして、京都の朝廷(=持明院統)と吉野の朝廷(=大覚寺統)とが並立し、半世紀以上続く「南北朝の動乱」が本格的に始まったのです。
さて、1336年に京都を支配した足利尊氏は、2年後の1338年には、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、後に「室町幕府」と呼ばれる新しい幕府を京都で開きましたが、その前途には絶えず不安がつきまとっていました。
その理由として、幕府を正当なものと認める後ろ盾となる朝廷が、二つに分裂していたことが挙げられます。北朝は本来の朝廷の都である京都におわしましたが、本物の三種の神器は南朝に存在するとされたこともあって、尊氏に従った新興勢力の武士の中には、北朝の正当性に疑問符をつける者もいました。
また、武士にとっての本拠地は鎌倉などの東国であるため、尊氏も本当であれば関東で幕府を開きたかったのですが、南朝がいつ北朝に取って代わろうとするか予断を許さない状態が続いたため、やむなく京都で幕府を開いたのです。このため、鎌倉には尊氏に代わる別の組織として鎌倉府(かまくらふ)が置かれたのですが、関東で鎌倉府に権力が集中したことによって、やがて幕府と対立するようになっていきました。
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