都落ちした尊氏でしたが、九州で兵力をまとめると、持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)から院宣(いんぜん、上皇からの命令書のこと)を受け、自らの軍の正当性を確保したうえで、再び京都を目指して東上しました。
尊氏の動きに対して、後醍醐天皇は楠木正成に摂津の湊川(みなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎え討つよう命じられましたが、正成は尊氏に敗れて自害しました。この戦(いくさ)は「湊川の戦い」と呼ばれています。
尊氏が再び京都を制すると、後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん)に逃(のが)れられ、光厳上皇の弟にあたる光明(こうみょう)天皇が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。
※下記の映像は10月7日までの掲載分をまとめたものです。
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