しかし、こうした「現実的」な考えは、「新羅憎し」の感情を優先させる天智天皇や大友皇子には受けいれられず、両者はいつしか対立するようになりました。そして671年10月、天智天皇は大海人皇子を宮廷内に呼びつけられると、「天皇の地位を譲る」と仰られました。
「これは罠(わな)だ」と直感した大海人皇子はこの誘いを断り、直ちに出家して吉野へ向かい、政治的野心のないことをアピールしました。
天智天皇は、同じ年の12月に46歳で崩御されました。天皇の崩御は、単なる後継争いのみならず、我が国の今後の外交路線も含めた大きな流れの中で、避けることの出来ない波乱の予感を漂(ただよ)わせていました。
※下記の映像は8月12日までの掲載分をまとめたものです。
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