第二次伊藤内閣も第四議会で民党と対立しましたが、明治26(1893)年2月に、明治天皇から「和衷協同(わちゅうきょうどう、心を合わせて互いに協力して行動すること)の詔(みことのり)」が出されました。
和衷協同の詔の主な内容は、天皇お自らが宮廷費を6年間節約されて毎年30万円を下付(かふ、下げ渡すこと)され、また文武官の俸給(ほうきゅう)を10分の1出させることによって、軍艦の建造費に充(あ)てるので、議会も政府に協力するように、というものでした。民党は詔に従って政争を中止し、その年の予算案も、修正のうえで成立しました。
ただし、その後も条約改正交渉の進展などをめぐって議会が政府を攻撃したこともあり、政府と衆議院との対立は、明治27(1894)年の日清戦争直前の第六議会まで続きました。
なお、第一議会から第六議会までを総称して「初期議会」と呼ばれています。
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