民党の仕打ちに激怒した海軍大臣の樺山資紀(かばやますけのり)は、議会の演説で「今日の我が国が安寧(あんねい)を保っているのは誰の功績か分かっているのか!」とぶち上げました。
樺山海相のいわゆる「蛮勇(ばんゆう)演説」に対し、民党が猛反発して議会は大混乱となり、進退窮(きわ)まった第一次松方内閣は、同年12月25日に衆議院を解散し、翌明治25(1892)年2月に総選挙が行われることになりました。
この総選挙の際に、内務大臣の品川弥二郎(しながわやじろう)を中心に大規模な選挙干渉が行われ、選挙中の死者が25名、負傷者が388名を数える惨事となってしまいました。
政府によるこうした干渉にもかかわらず、民党は過半数こそ達しなかったものの優勢での勝利となり、品川内相は引責辞任して、政府を支持する議員をまとめた国民協会を結成しました。なお、第一次松方内閣は、第三議会終了後に退陣しています。
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