つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現を、わざわざ民権派の方から自主的にアシストしてくれたわけですから、建前はともかく、自由民権運動は政府にとって、心の底では「願ったり叶ったり」の流れだったのではないでしょうか。
もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と、自由民権運動が目指す「下からの改革」といった手法の違いは当然のように存在していました。
当時の政府には、列強による植民地化を防ぎながらあらゆる分野において近代化を進めなければならないという厳しい情勢のなかでは、政府主体の強い権限で何事も実行しなければならないという信念がありました。
それゆえに、急進的に近代化を進めようとする自由民権運動とはしばしば対立関係となり、反体制運動に対する政府の厳しい取り締まりも当然であったともいえるのです。
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