黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が新聞にすっぱ抜かれると、政府に対する非難の声が一斉に挙がりました。これを「開拓使官有物払下げ事件」といいます。
事件に乗じて、民権派は藩閥政府への攻撃と国会開設の早期実現を声高に主張しましたが、政府は、民権派によるこうした水際立った動きの裏には「何かがある」と察知しました。
やがて、民権派の背後に当時急進的な議会政治の実現を目指していた大隈重信(おおくましげのぶ)の策謀(さくぼう)があると判断した政府は、同年10月に大隈を罷免(ひめん)するとともに、民権派の動きを抑える意味も込めて「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」を発表し、約10年後の明治23(1890)年に国会を開設することを公約しました。
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