我が国が隋に強気の外交姿勢を見せた一方で、かつて隋と激しく戦った高句麗は、自国が勝ったにもかかわらず、その後もひたすら低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けていました。
隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない、危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったのでしょうか。それとも、自国の実力を無視した、あまりにも無謀な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋は、我が国へ攻め寄せる余裕が「全くといっていいほどなかった」のです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、聖徳太子は既に
相手の状態を把握していた事なのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、聖徳太子は既に
> 相手の状態を把握していた事なのでしょうかね?
仰るとおりで間違いないと思われます。
本来、外交というのはこういうものですよね。
なるほど、聖徳太子は既に
相手の状態を把握していた事なのでしょうかね?
> 相手の状態を把握していた事なのでしょうかね?
仰るとおりで間違いないと思われます。
本来、外交というのはこういうものですよね。