この他にも、個人の才能や功績によって昇進も可能となる画期的な身分制度である、602年に定められた「冠位(かんい)十二階」など、聖徳太子の内政面での活躍は枚挙(まいきょ)に遑(いとま)がないですが、実は外交の面においても、聖徳太子はその実力を十二分に発揮(はっき)しているのです。
何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子は、600年に初めて遣隋使(けんずいし)を送ったほか、高句麗の高僧であった恵慈(えじ)などから、東アジアにおける国際情勢を詳しく学びました。
ちなみに、恵慈は熱心な仏教徒であった聖徳太子によって、我が国で仏教を広めるために高句麗から招かれたのですが、仏教を学ぶことは、当時の最先端の情報や技術を入手する意味も込められていました。
その後、隋に対して共同で対抗するために、朝鮮半島の高句麗や百済と同盟を結ぶなど、事前の様々な準備を終えた聖徳太子は、満を持して607年に、小野妹子(おののいもこ)を使者として2回目の遣隋使を送りました。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
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