なぜなら、熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)や埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土(しゅつど)したそれぞれの鉄剣(てっけん)に「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と刻(きざ)まれていたからです。
雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」であり、「幼武(わかたける)」の部分が一致するので間違いないとされています。
ところで、倭の五王がチャイナの南朝に使者を送った際の形式は、大王(おおきみ)と呼ばれた我が国の天皇が、皇帝の権威に屈してその臣下(しんか)となるという、いわば「臣下の朝貢国(ちょうこうこく)」になるというものでした。
これは、先述した「冊封(さくほう)体制」そのものであり、大和朝廷にとっては「屈辱(くつじょく)」以外の何物でもありませんでした。この関係を解消するには、さらなる時間の経過が必要だったのです。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
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