一方、北方の高句麗も、同じように半島南部の鉄資源や先進技術を求めて南下策を進めていました。こうして、高句麗と大和朝廷とは交戦状態となりました。
現代の中華人民共和国と北朝鮮との国境付近には、6mの高さを持つ、見上げるように大きな碑(ひ)が残されています。それは高句麗の好太王碑(こうたいおうひ、または「広開土王碑(こうかいどおうひ)」)です。実在した高句麗の好太王の戦績を称(たた)えた碑文(ひぶん)には、4世紀末から5世紀初めにかけての、高句麗と大和朝廷との激しい戦闘の記録がつづられています。
なお、我が国の歴史書である「日本書紀(にほんしょき)」には、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮へ出兵をしたという記述が見られ、好太王碑に残された碑文との関連性が指摘されています。また、同じく日本書紀には「任那日本府」という名称が登場しており、神功皇后以来の朝鮮半島への出兵に際し、弁韓地方での拠点(きょてん)として存在していたのではないか、と考えられています。
ちなみに、多くの歴史教科書では、なぜか「任那」が使用されず、「加羅(から)」あるいは「加耶(かや)」と称しているのもが多いようです。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち おはようございます!
確かに
加羅という名称で勉強をした記憶が有ります。
しかし、名称を変えて伝えると言うことは
本来、致命傷な事なのではないでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > しかし、名称を変えて伝えると言うことは
> 本来、致命傷な事なのではないでしょうか?
私も同感です。
どうやら近隣諸国への「配慮」が絡んでいるようですが…。
確かに
加羅という名称で勉強をした記憶が有ります。
しかし、名称を変えて伝えると言うことは
本来、致命傷な事なのではないでしょうか?
> 本来、致命傷な事なのではないでしょうか?
私も同感です。
どうやら近隣諸国への「配慮」が絡んでいるようですが…。