そして266年、魏にかわった晋(しん)の首都である洛陽に、倭国の女王(=壱与か?)が使者を遣わしたと「晋書(しんじょ)」に書かれたのを最後に、約150年間、倭に関する記載はチャイナの歴史書から姿を消しました。この時代以降、大陸では政治の混乱が続き、歴史書をまとめる余裕がなかったからだと考えられています。
ところで、邪馬台国の記載がある「魏志倭人伝」の内容には様々な解釈があり、現代でも研究や論争が続いています。邪馬台国の位置についても、九州説と畿内(きない)説があり、それによって、日本側の伝承にある「大和朝廷(やまとちょうてい)」との関係についても意見が分かれています。
3世紀当時の我が国では小国家の統一が進み、その最大勢力が、現在の皇室の祖先を中心にして形成された、大和地方を中心とする政治連合である大和朝廷であると考えられています。なぜなら、現在の大和地方を中心に、3世紀後半から巨大な古墳(こふん)がつくられているからです。
その後も、大和地方と同じ形の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が各地につくられたことから、大和朝廷の支配が順次拡大していったと推定され、おそらく4世紀半ばまでには、関東地方から九州北部までの我が国の広い範囲が、大和朝廷の支配下に入ったと考えられています。
※下記の映像は6月11日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
そうですか。。
女性でなければ統治出来ない時代も
あったという事なんですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この時代はそういうことだったのでしょうね。
トップが権威で君臨するあたりは、男女の違いはあれど現在の皇室と似ているところはあります。
そうですか。。
女性でなければ統治出来ない時代も
あったという事なんですね!
トップが権威で君臨するあたりは、男女の違いはあれど現在の皇室と似ているところはあります。