来栖大使はルーズベルト大統領に我が国の苦しい立場を素直に表明して、交渉に応じるよう懸命に説得しましたが、大統領は言葉を適当にはぐらかして、やんわりと拒否するばかりでした。
実は、この時までにアメリカ側は日本の秘密文書の暗号を解読しており、我が国の交渉過程は筒抜けだったのです。それでも、我が国は切り札として最後まで取っておいた「乙案」も提示したほか、日独伊三国同盟の死文化すら申し入れましたが、アメリカは聞き入れず、11月26日に両大使に対して一つの「外交文書」を突き付けました。
それこそが、悪名高い「ハル・ノート」だったのです。
※下記の映像は4月23日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
申し訳ありませんが
死文化という意味がわかりません(^_^;)
ハル・ノートですか・・
名前だけは聞いた事が有りますが
内容は・・・忘れてしまいました(大汗
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「死文化」とは条約や同盟などが何の効果も持たなくなる、という意味です。
ハル・ノートについては次回の更新で明らかにしますが、その内容が…。
申し訳ありませんが
死文化という意味がわかりません(^_^;)
ハル・ノートですか・・
名前だけは聞いた事が有りますが
内容は・・・忘れてしまいました(大汗
ハル・ノートについては次回の更新で明らかにしますが、その内容が…。