昭和天皇に絶対の忠誠を誓っていた東條首相ならではの方針の転換でしたが、さらに東條は、外務大臣に対米協調派の東郷茂徳(とうごうしげのり)を選んだほか、大本営政府連絡会議を連日開いて、戦争回避への外交策を検討しました。
会議において統帥部から「開戦後2ヵ年は成算があるが、それ以降は不明である」との意見があり、政府もそれを了承しました。当時の我が国の石油の備蓄量は、民需の分を含めて2年分しかなく、まさに石油の有無が我が国の生命線を握っていたと言えました。
この他、外交交渉の期限を昭和16(1941)年11月30日夜12時(12月1日午前0時)と定めたほか、対米交渉の切り札として、アメリカの希望を可能な限り考慮した「甲案」「乙案」を取りまとめました。この時、交渉期限まですでに1ヵ月を切っており、まさに土俵際の外交交渉だったのです。
※下記の映像は4月23日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
この当時の緊迫した雰囲気が
伝わる今日のお話ですね・・
瞬時の判断を余儀なくされた
まさに東條氏の才覚が問われる場面ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
東条首相のギリギリまでの判断が問われますが、それを木っ端みじんに打ち砕いたのは…。
この当時の緊迫した雰囲気が
伝わる今日のお話ですね・・
瞬時の判断を余儀なくされた
まさに東條氏の才覚が問われる場面ですね!
東条首相のギリギリまでの判断が問われますが、それを木っ端みじんに打ち砕いたのは…。