なお、この会議において、戦争ではなくあくまで外交的な解決を望まれた昭和天皇は、明治天皇がお詠みになった御製をご披露されておられます。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」
(※はらから=兄弟姉妹のこと)
御前会議の終了後、対米関係の悪化に苦慮していた近衛首相は、事態打開のためにフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しようとしました。駐日大使のグルーは首脳会談の早期実現を本国に強く訴えましたが、アメリカはこれに応じず、昭和16(1941)年10月2日に会談の拒否を我が国に通告しました。
頼みの綱であった首脳会談が幻に終わり、対米交渉の外交期限も近づいた同年10月18日に、近衛首相が内閣を総辞職したことにより、替わって東條英機内閣が誕生することとなったのです。
※下記の映像は4月14日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
願わくば、話し合いでどうにか
戦争を回避出来ればと思ったのに
拒否されてしまってはどうにもなりませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
話し合いを一方的に拒否する段階で、アメリカが戦争する気満々であったことがうかがえますね。
願わくば、話し合いでどうにか
戦争を回避出来ればと思ったのに
拒否されてしまってはどうにもなりませんよね。
話し合いを一方的に拒否する段階で、アメリカが戦争する気満々であったことがうかがえますね。