また、地頭は公的に認められた土地の管理人ですが、その任命権が守護を含めて頼朝側にあるために、武士が初めて自分の土地を公的に所有できる道を拓(ひら)くことになりました。
さて、その後の義経一行ですが、何とか藤原秀衡のところまでたどり着くことができました。秀衡は義経の戦術の巧(たく)みさを、来るべき頼朝との戦いの切り札にしようと考え、義経を手厚く保護しましたが、一年も経たないうちに秀衡が病死してしまいました。これも義経にとっては大きな不運だったのです。
秀衡の後を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は、父ほどの器量を持っておらず、頼朝からの「義経を殺せば藤原氏の安泰は保証する」という誘いに乗ってしまい、1189年に義経の住んでいた館を急襲しました。義経主従は奮戦しましたが、多勢に無勢ではどうしようもなく、ついに義経は妻子とともに自害して果てました。わずか31歳の若さでした。
なお、義経の最期の際に弁慶が彼をかばい、屋外で体中に矢を浴びて、立ったまま死んだとされる「立往生(たちおうじょう)」の話が伝説として残されています。また、義経を自ら殺したことによって、切り札を失った泰衡は、結局この後に頼朝によって倒され、約100年続いた奥州藤原氏は滅亡してしまいました。
※下記の映像は1月23日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
義経にも妻子がいた事は初めて知りました!
まあ、それは当然と言えば、当然なのでしょうけど(^_^;)
なんとなく、弁慶の最後の伝説話からして
義経は最後まで独身を貫いていたのかと
勝手に解釈していました(大汗)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、立往生のイメージからすると独身っぽいですよね。
いずれにせよ、義経の血脈が途絶えたことは残念でした。
義経にも妻子がいた事は初めて知りました!
まあ、それは当然と言えば、当然なのでしょうけど(^_^;)
なんとなく、弁慶の最後の伝説話からして
義経は最後まで独身を貫いていたのかと
勝手に解釈していました(大汗)
いずれにせよ、義経の血脈が途絶えたことは残念でした。