これに加えて、義経はさらに致命的なミスを犯していました。頼朝の許可もなく、後白河法皇からの検非違使(けびいし、主として京都の治安維持を担当する役職のこと)への任官を勝手に受けてしまったのです。
なお、任官後の義経は「九郎判官(くろうほうがん)」と呼ばれましたが、これが後に「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉を生むことになります。
この義経の「朝廷からの任官を受ける」という行為は、実は頼朝のそれまでの血のにじむような努力を全部無駄にしてしまいかねない、とんでもないことでした。なぜそう言い切れるのでしょうか。
※下記の映像は1月23日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
天才というのは、
どうもチームプレーには向いていないようですね。
それ故に人よりも抜きん出た行動が出来るのでしょうけれど。
頼朝もまた政治的センスには長けていたのでしょうけれど、イマイチ
人の気持ちに深く踏み込めない詰めの甘さが
あったのかも知れませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 頼朝にも、義経にも、それぞれの欠点があったことでしょう。
両者をつなぐ接点がもっと豊富であれば、と思われますね。
天才というのは、
どうもチームプレーには向いていないようですね。
それ故に人よりも抜きん出た行動が出来るのでしょうけれど。
頼朝もまた政治的センスには長けていたのでしょうけれど、イマイチ
人の気持ちに深く踏み込めない詰めの甘さが
あったのかも知れませんよね。
両者をつなぐ接点がもっと豊富であれば、と思われますね。