また、1975(昭和50)年には、東西ヨーロッパ諸国とアメリカ、カナダなど35か国が参加した全欧(ぜんおう)安全保障協力会議(CSCE)が開催され、人権や経済の分野で東西対話が促進されました。
デタントによるこれら一連の流れで、東西の緊張緩和が進んだように思われましたが、アメリカの国防費が低く抑えられたのに対して、ソ連は1970年代にかけて大幅な戦略核兵器の増強を行い、ICBM(大陸間弾道ミサイル)やSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の保有量がアメリカを上回るようになりました。
戦略核兵器でアメリカを抜き去り、優位に立ったソ連は、返す刀で石油の供給地である中東に包囲網を仕掛けるため、1977(昭和52)年にエチオピア、翌1978(昭和53)年には南イエメンとアフガニスタンでクーデターを起こさせ、親ソ政権を樹立させました。
結果的に、デタントはソ連に時間稼ぎの場を与えたに過ぎなかったのです。やがて、ソ連による軍事的侵攻をきっかけとして、1970年代末には、米ソの関係は再び悪化へと向かうのでした。
※「政治経済の授業から学ぶ国際政治」については今回で一旦中断し、次回(12月12日)からは第57回歴史講座「平安後期の政治史 ~院政と平氏政権」の更新を開始します。
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ぴーち こんばんは!
野望の強い国が相手だと
攻撃の手を緩めた途端、空きを狙って
強く出てくるものですね(^_^;)
またそれにすぐさま反応して
応戦して行こうと思うと
相手の思うつぼでも有りますし・・
こういうときこそ、冷静な判断を
取っていきたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いくら当方が冷静に対処しても、相手方の挑発があまりにも狡猾であれば、やられてしまうこともありますからね。
この後も困難な時代が続くこととなりました。
野望の強い国が相手だと
攻撃の手を緩めた途端、空きを狙って
強く出てくるものですね(^_^;)
またそれにすぐさま反応して
応戦して行こうと思うと
相手の思うつぼでも有りますし・・
こういうときこそ、冷静な判断を
取っていきたいものです。
この後も困難な時代が続くこととなりました。