1068年に藤原氏を外戚としない後三条(ごさんじょう)天皇が即位されると、翌1069年には「延久(えんきゅう)の荘園整理令」を出されて、藤原氏の大きな財産であった荘園を大幅に削減されました。
また、後三条天皇の子の白河(しらかわ)天皇が幼い実子に譲位されると、お自らは幼い天皇を後見するという名目で、政治の実権を握られました。つまり、それまでの摂関家にかわって、天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見する制度が新たに誕生したのです。
なお、上皇の住居が院と呼ばれ、その後に上皇自身が「院」と称されることになったことから、この制度のことを院政(いんせい)といいます。
※下記の映像は9月20日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに昔は現代の様に医学のちからで
人工授精や体外受精などによって
無理にでも子供を作る事が
出来る技術は無かったでしょうから
人知を超えた出来事に関しては
諦めるしか無かったでしょうから
分を弁えるという意味では
まだ人間らしい判断が出来た時代でも
有りましたよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
皇室にかかわれなくなった段階で、藤原氏の役割は終わったのかもしれません。
確かに昔は現代の様に医学のちからで
人工授精や体外受精などによって
無理にでも子供を作る事が
出来る技術は無かったでしょうから
人知を超えた出来事に関しては
諦めるしか無かったでしょうから
分を弁えるという意味では
まだ人間らしい判断が出来た時代でも
有りましたよね。
皇室にかかわれなくなった段階で、藤原氏の役割は終わったのかもしれません。