光仁(こうにん)天皇の子の桓武(かんむ)天皇が、794年に都をそれまでの長岡京から平安京に遷(うつ)された頃、桓武天皇の子で皇太子の安殿(あて)親王は身体が弱く、病気がちでした。そんな親王の后(きさき)としてある女性が選ばれた際に、その女性が幼かったため、彼女の母親も後見役として一緒に迎えられましたが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。
何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが、藤原氏の式家(しきけ)の血を引く藤原薬子(ふじわらのくすこ)でした。安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御され、安殿親王が平城(へいぜい)天皇として即位されると、薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
※下記の映像は9月7日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
こういうお話を伺うと
女人の恐ろしさを感じずには居られなくなりますね(^_^;)
同性として考えて見てもどうも受け入れがたい
存在ですね・・
野望の果てに行き着いた場所は
心の底から喜べる境涯なのでしょうか・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 やはり同性としても受け入れがたいですか…。
この愛憎の結末は、次回の更新をご覧ください。
こういうお話を伺うと
女人の恐ろしさを感じずには居られなくなりますね(^_^;)
同性として考えて見てもどうも受け入れがたい
存在ですね・・
野望の果てに行き着いた場所は
心の底から喜べる境涯なのでしょうか・
この愛憎の結末は、次回の更新をご覧ください。