しかし、この政策は、仮に新羅征討に成功したとしても、やがて勢力を立て直した唐によって巻き返されるのは必至なうえに、我が国が唐に攻め込まれる口実を与えてしまいかねないという、極めて危険なものであったことから、およそ100年前に起きた白村江(はくすきのえ)の悲劇をまた繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が次第に高まりました。
こうした中で、最大の後ろ盾であった光明皇太后が760年に死去され、さらには病に倒れられた孝謙上皇(上皇=じょうこうとは「退位された天皇」という意味)が、僧の道鏡(どうきょう)の祈祷(きとう)によって健康を回復されると、上皇が次第に影響力を高められた一方で、恵美押勝の勢力が急速に衰えていきました。
あせった恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと764年に反乱を計画しましたが、未然に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位となり、淡路(あわじ、現在の兵庫県淡路島)に追放されました。これらの事件を「恵美押勝の乱」といいます。
天皇の位には、孝謙上皇が重祚(ちょうそ)され、称徳(しょうとく)天皇となられました。なお、淳仁天皇は称徳天皇によって崩御後も贈り名を与えられず、長らく「淡路廃帝(あわじはいたい)」と呼ばれました。「淳仁天皇」と追号されたのは、明治になってからのことです。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
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