ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は、我が国最初の肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅(しらぎ)より下になっていることに対して猛烈に抗議し、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。
席次の件といい、また鑑真を密かに渡日させたことといい、気骨(きこつ)ある人物でなければ外交官は務まらないのは、今も昔も同じなのかもしれませんね。
※下記の映像は8月25日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
鑑真の彫刻は
確かに盲目の状態で残されていますよね。
鑑真は、今で言えば
外交官の役割と同等だったのですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。鑑真が我が国に遺した功績は計り知れないと思います。
鑑真の彫刻は
確かに盲目の状態で残されていますよね。
鑑真は、今で言えば
外交官の役割と同等だったのですね!