意次は老中を追われてからわずか数年で亡くなり、自己の非難に対する弁解の機会が永久に失われてしまいました。一方、定信は老中を辞めさせられた後も、白河藩主として30年以上も生き続けて、その間に多くの著作を残すことで、田沼時代を徹底的に非難することができました。
さらに、幕府は身分による秩序を重視していたので、低い出自から成り上がった意次よりも、将軍吉宗の孫という血筋を持つ定信の主張を優先する傾向があり、加えて定信が幕府の公式学問である朱子学の優秀な学者であったことも、定信によって意図的につくられた意次の「悪人像」が、後世にまで残ってしまう原因となってしまったのです。
ところで、一時は意次による政治を激しく憎んだ庶民も、定信による寛政の改革が失敗したことで、後には田沼時代を懐かしみ、以下の狂歌(きょうか、日常を題材に洒落や風刺を盛り込んだ短歌のこと)を残しています。
「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁(にご)りの 田沼こひしき」
※下記の映像は6月26日までの掲載分をまとめたものです。
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