11代将軍である徳川家斉は、吉宗が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として、自身の血統から新たに設立した御三卿の一橋家(ひとつばしけ)の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して、前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて寛政5(1793)年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は約6年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も、老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(いろう)」として政治を行っています。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに自分の理想だけを押し付けてみても
結局は何処かでその理想も引きずり落とされてしまう
時が来るものですね。
相手や周りの意見にも耳を傾ける姿勢が
定信には足りなかったのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、全く不足していましたね。
まさに反面教師です。
確かに自分の理想だけを押し付けてみても
結局は何処かでその理想も引きずり落とされてしまう
時が来るものですね。
相手や周りの意見にも耳を傾ける姿勢が
定信には足りなかったのですね。
まさに反面教師です。