宗春の後継となった徳川宗勝は、先々代藩主の継友時代の法令を復活させ、質素倹約を奨励したため、名古屋の街は火が消えたような寂しさとなりました。
しかし、宗春による大胆な規制緩和と大幅な財政政策は、その後の幕府政治へと引き継がれていったのです。
延享(えんきょう)2(1745)年、吉宗は将軍職を子の徳川家重に譲って大御所となると、かつて宗春を謹慎へと追い込んだ松平乗邑が、家重によって老中職を罷免(ひめん)されました。
元文の小判改鋳によって財政を回復させた幕府でしたが、これは江戸南町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ)による再三の献策によって実現したものであり、老中の松平乗邑は最後まで反対していました。改鋳による金融緩和の後、乗邑は農民からの租税回収を強化したため、先述したとおり、吉宗の政権末期には天領を中心に各地で一揆が頻発(ひんぱつ)していたことから、その責任を乗邑が取らされたかたちとなったのです。
参考文献:「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」(著者:北川宥智 出版:風媒社)
http://www.muneharu.net/
※下記の映像は3月4日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
私は名古屋には一度キリしか出かけた事が
有りませんが、
パチンコ店などの風俗営業施設
が多く立ち並んでいた印象だけが有りました(^_^;)
こうした大元は、もしかしたら
この頃の繁栄が人々の気質として
残されて現在に至っているのかしら。。なんて思ってしまいました(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう一面もありそうですね(^^ゞ
文化は様々なものをもたらしますが、その中でも「ものづくり」は素晴らしいですよ。詳しくは次の最終回にて。
私は名古屋には一度キリしか出かけた事が
有りませんが、
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残されて現在に至っているのかしら。。なんて思ってしまいました(^_^;)
文化は様々なものをもたらしますが、その中でも「ものづくり」は素晴らしいですよ。詳しくは次の最終回にて。