そんな折の1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後に漂着した際に、秀吉にかわって天下統一をめざしていた徳川家康(とくがわいえやす)は、リーフデ号の航海士であるオランダ人のヤン=ヨーステンと、イギリス人の水先案内人(=波や水深など湾や港特有の専門知識を持ち、出入りする船に乗り込んで安全に航行させる職種のこと)であるウィリアム=アダムスを江戸に招き、彼らを外交や貿易の顧問として、両国との貿易をめざしました。
つまり、江戸時代の初期において、家康は外国との貿易を積極的に行おうとしていたのです。ちなみにウィリアム=アダムスは日本名で三浦按針(みうらあんじん)、ヤン=ヨーステンは耶楊子(やようす)となり、ヤン=ヨーステンが家康から与えられていた屋敷の場所は、彼の名前から、現在の「八重洲(やえす)」と呼ばれるようになりました。
なお、イギリスとオランダはほぼ同時期に東インド会社を設立し、東アジアに進出して東洋での貿易に乗り出しました。また両国は、カトリックではなくプロテスタントであったことや、イギリス人やオランダ人が紅毛人(こうもうじん)と呼ばれていたという共通点がありました。





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ぴーち こんばんは!
なるほど!八重洲にそんな語源があったとは
驚きました^^
家康はむしろ積極的に外国との交流を図ろうと
していたことがよく分かりました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 意外な歴史が存在するものですよね。
家康の考えがその後の我が国にどのような影響をもたらすのでしょうか…。
なるほど!八重洲にそんな語源があったとは
驚きました^^
家康はむしろ積極的に外国との交流を図ろうと
していたことがよく分かりました。
家康の考えがその後の我が国にどのような影響をもたらすのでしょうか…。