フランシスコ=ザビエル自身は2年あまりで我が国を離れましたが、我が国における布教活動に道筋をつけたことで、この後も、ルイス=フロイスなどの宣教師が相次いで来日して、教会堂である南蛮寺(なんばんでら)や宣教師の養成学校であるコレジオ、神学校であるセミナリオなどを次々と建てました。
また、ポルトガル船が、カトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは、南蛮貿易による権益の欲しさから、宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、中には自らが洗礼を受けて、キリシタン大名となる者も現れました。
キリシタン大名のうち、九州の大友宗麟や大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)らは、イタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、1582年に少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。これを、当時の年号から天正遣欧(けんおう)使節といいます。
カトリックによる教えは、ヨーロッパの進んだ文化にあこがれたり、あるいは既存の仏教を中心とした宗教勢力が、権益を求めて争い合う姿勢に不満を持ったりした人々の間で急速に広まっていきましたが、その一方で、カトリックに潜(ひそ)む我が国侵略の野望は、水面下で確実に広がっていったのです。





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ぴーち おはようございます!
カトリックが日本に受け入れられた理由は、
仏教に不満があった人間が反発心から
入信しただけとばかりに解釈していましたが、
そこに利益も絡むとなると、確かに数は増えて
いきまね。
それこそ、崇高な信仰心から遠ざかった
考え方ではなかったのは残念に思う所ですが・(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 宗教への入信には色々な理由がありますからね。
問題はむしろ入信した後です。このときからの我が国がどうなってしまうのか…。
カトリックが日本に受け入れられた理由は、
仏教に不満があった人間が反発心から
入信しただけとばかりに解釈していましたが、
そこに利益も絡むとなると、確かに数は増えて
いきまね。
それこそ、崇高な信仰心から遠ざかった
考え方ではなかったのは残念に思う所ですが・(^_^;)
問題はむしろ入信した後です。このときからの我が国がどうなってしまうのか…。