意次は平助の意見を採用して蝦夷地の直轄(ちょっかつ)を計画し、幕府による北方調査団を派遣したのみならず、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
つまり、アイヌの人々を介したうえで、ロシアと直接貿易を行おうとしたのです。これは「開国」のきっかけにもなり得る画期的な政策でしたが、残念ながらこの直後に意次が失脚してしまい、計画は幻に終わりました。
その後、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が「海国兵談」を著して、我が国の海岸防備の必要性を説きましたが、意次の後を受けて老中となった松平定信(まつだいらさだのぶ)がこれを抹殺してしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。それを思えば、海国兵談の発禁処分は定信による幕府の痛恨の失政でした。
※下記の映像は12月29日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
こういった事がチャンスの1つだったのですね。
運命のいたずらと言ってしまえば、それまでですが
こう言う千載一遇のチャンスの時って必ずそれを阻む何かが訪れるものなんですよね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こう言う千載一遇のチャンスの時って必ずそれを阻む何かが訪れるものなんですよね(^_^;)
残念ながらそのとおりですね。
この時に開国していれば…と惜しまれてなりません。
もっとも、まだチャンスは残っていたのですが…。
こういった事がチャンスの1つだったのですね。
運命のいたずらと言ってしまえば、それまでですが
こう言う千載一遇のチャンスの時って必ずそれを阻む何かが訪れるものなんですよね(^_^;)
残念ながらそのとおりですね。
この時に開国していれば…と惜しまれてなりません。
もっとも、まだチャンスは残っていたのですが…。