翌安政6(1859)年、井伊直弼による安政の大獄において、梅田雲浜(うめだうんぴん)との関係による嫌疑(けんぎ)をかけられた松陰は江戸に送られると、尋問(じんもん)の際に老中暗殺計画の詳細を自供してしまいました。
なぜ松陰は暗殺計画を自ら幕府に語ったのでしょうか。松陰は常日頃から「至誠(しせい)にして動かざる者は、未だ之(こ)れ有らざるなり」、すなわち「真心を尽くせば、感動しない者はいない」という孟子(もうし)の言葉を語っていました。
松陰は「我が国の行く末が気になるからこそ、本当のことを話さなければならない。幕府もきっとわかってくれるはず」という強い信念があったのかもしれません。
しかし、そんな松陰の真っ直ぐな思いは、幕府の上層部には通用しませんでした。松陰が告白した計画に激怒した井伊直弼が、見せしめとして松陰を死罪にすることに決めたのです。
※下記の映像は12月15日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
さして差し支えない企てならば
そのように激怒もしなかったのでしょうけれど、
正論であるが故に怖さが倍増したのでしょうね。
正論はそれだけで刃のごとき威力を持つものですしね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 正論はそれだけで刃のごとき威力を持つものですしね。
仰るとおりだと思います。
松陰の真っ直ぐな思いが、逆に彼の生命を縮めてしまったのが何とも言えない皮肉ですね。
さして差し支えない企てならば
そのように激怒もしなかったのでしょうけれど、
正論であるが故に怖さが倍増したのでしょうね。
正論はそれだけで刃のごとき威力を持つものですしね。
仰るとおりだと思います。
松陰の真っ直ぐな思いが、逆に彼の生命を縮めてしまったのが何とも言えない皮肉ですね。