特攻隊の攻撃は「爆弾を載(の)せた飛行機が敵の軍艦めがけて体当たりで突撃する」というものであり、飛行機自体を爆弾ととらえたうえで、飛行士もろとも犠牲になりました。この決死の攻撃によって、日本軍は多くのアメリカ空母を沈めることができましたが、最終的には翌昭和20(1945)年7月にフィリピンを奪還されてしまいました。
なお、日米の激戦によってフィリピンの多くが戦場となりましたが、なかでも首都のマニラは、日本軍が非武装地帯とする「オープン・シティ」化に失敗したことから多くの被害を出してしまったため、戦後にフィリピンの対日感情が悪化したと伝えられることが多いようですが、マニラの博物館では「米軍の砲撃によって炎上するマニラ市街」と当時の様子が紹介されていたことがあったとのことです。
要するに、戦争でマニラの市街を破壊したのは日本軍ではなく、一般市民の被害を何とも思わぬアメリカ軍(このことは後述する我が国への無差別攻撃からも明らかです)によって甚大(じんだい)な被害を受けたとマニラ市民は以前から考えており、フィリピンの人々にとっては、対米感情こそがはるかに悪いことを示しているといえるでしょう。
ところで、我が国で初めての神風特攻隊の作戦実行をお聞きになった昭和天皇は「そのようにまでしなければならなかったのか!」と叫ばれ、しばし絶句された後に「しかしよくやった」と仰(おっしゃ)いました。このお言葉は決して特攻隊を称賛するのではなく、国のために生命を散らした兵士たちの尊い犠牲に対する労(いたわ)りのお気持ちが込められていると考えるべきではないでしょうか。
※下記の映像は9月22日までの掲載分をまとめたものです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
確かに戦争当時は、アメリカは日本にとっても敵国で
憎むべき存在でしたが、今では手を携えて
友人と名乗り合う間柄ですから
フィリピンにとっては複雑な思いで見ているので
無いかと想像します。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国家同士の争いは、時として複雑な流れを生み出します。
確かに戦争当時は、アメリカは日本にとっても敵国で
憎むべき存在でしたが、今では手を携えて
友人と名乗り合う間柄ですから
フィリピンにとっては複雑な思いで見ているので
無いかと想像します。
国家同士の争いは、時として複雑な流れを生み出します。