その一方で、満州のさらなる防衛強化のためには、華北を日本の影響下に置いた方が良いと関東軍が考えていたことから、昭和10(1935)年に冀東(きとう)防共自治政府が樹立されるなど、いわゆる華北分離工作が進められました。なお、日本政府は昭和11(1936)年1月に「第一次北支処理要綱」を閣議決定していますが、これは華北分離工作を国策としたものと解釈されているようです。
国民政府との激しい勢力争いを続けていた中国共産党は、事態を打開するために抗日救国運動を提唱し始めましたが、これはヨーロッパにおいてソ連が支援した人民戦線運動(人民戦線とは自由主義から無政府主義まで幅広く結集した組織のこと)と同じ性格を持っていました。なぜなら、抗日救国運動や人民戦線運動は救国のためとか、あるいは世界の人民と連携して行動するといった建前ばかりではなく、各国でナショナリズムをあおることによって、共産主義への敵対心を緩和させることが本当の目的だったからです。
中国共産党が提唱した抗日救国運動は、1935年から1936年にかけて数多くの在留日本人が殺されるなどのテロ事件を起こしましたが、その間に共産党が山西省(さんせいしょう)に侵入するなど勢力の拡大をもたらしたため、国民政府の蒋介石(しょうかいせき)は中国共産党に対する本格的な掃討作戦を開始しました。
蒋介石の動きに対し、中国共産党は陝西省(せんせいしょう)の延安(えんあん)にまで追いつめられましたが、ここで起死回生の事件を起こすことによって、共産党の勢力が回復するとともに、国民政府や我が国に対して深刻な影響を与えてしまったのです。
※下記の映像は7月3日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
日本と中国共産党と、中国政府との
三つ巴の戦いが繰り広げられたわけですね。
その後の結果が気になります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > その後の結果が気になります。
今回は途中経過で終わりますが、そこだけでも相当なストレスになるかもしれません。
いずれにせよ、およそ人間の所業とは思えない行為を平気でやる民族も存在する、ということですね…。
日本と中国共産党と、中国政府との
三つ巴の戦いが繰り広げられたわけですね。
その後の結果が気になります。
今回は途中経過で終わりますが、そこだけでも相当なストレスになるかもしれません。
いずれにせよ、およそ人間の所業とは思えない行為を平気でやる民族も存在する、ということですね…。