名主は、荘園などの領主に対して年貢(ねんぐ)・公事(くじ)・夫役(ふやく)などを納めました。年貢は以前の租(そ)や公出挙(くすいこ)にあたる米などの現物納付であり、公事は以前の庸(よう)・調(ちょう)に相当する各地の特産物や手工業品の物納で、夫役は以前の雑徭(ぞうよう)にあたる労役奉仕(ろうえきほうし)でした。
一方、国司も荘園の増加を指をくわえて見ていたわけではありませんでした。国の支配下においていた公領(こうりょう)である国衙領(こくがりょう)を郡(ぐん)・郷(ごう)・保(ほう)という行政単位に再編成して、開発領主を郡司(ぐんじ)・郷司(ごうし)・保司(ほうじ)に任命して徴税を請け負わせました。
要するに、政府の公領たる国衙領を、国司の私領的な色彩を強めることによって、荘園と同様の構成としたわけです。以前に紹介した、かつての律令制における国(くに)・郡(ぐん)・里(り)という上下の区分で構成されていた一国の編成は、荘(しょう)・郡(ぐん)・郷(ごう)などが並立する荘園と公領とで構成される体制へと変化していきました。こうした変化後の体制のことを荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)といいます。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
昔は「名主」(みょうしゅ)という音読みで呼ばれていたんですね。「名主」を(なぬし)と呼ばれるようになったのは、ずっと後なんでしょうか?それとも、よく時代劇などで話されている言葉は、現代人でも容易に理解出来るように、その当時に使われていた言葉は極力判り易く、編集されてしまってると聞いた事があるので、そういう習いで行くと、なぬしという読み方は、元々存在しなかったのでしょうか・・。
労役奉仕・・簡単に袖の下などに入れるもので無いという事が好感が持てる制度ですね?w
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 昔は「名主」(みょうしゅ)という音読みで呼ばれていたんですね。「名主」を(なぬし)と呼ばれるようになったのは、ずっと後なんでしょうか?それとも、よく時代劇などで話されている言葉は、現代人でも容易に理解出来るように、その当時に使われていた言葉は極力判り易く、編集されてしまってると聞いた事があるので、そういう習いで行くと、なぬしという読み方は、元々存在しなかったのでしょうか・・。
平安時代に成立した名主(みょうしゅ)は、その後も地位を維持してきましたが、室町時代の守護大名やその後の戦国大名が強い軍事力などで領国を支配するようになると、その力は次第に衰えていきました。
しかし、各地の村落としての自治能力は残っていたので、江戸時代の幕府や各藩は旧名主層を指導者として、ある程度の自治を任せました。指導者は西日本では庄屋と呼ばれましたが、東日本では名主(なぬし)と呼ばれるようになりました。
以上のことから、はっきりとした時期は分かりませんが、遅くとも江戸時代の頃には「みょうしゅ」が「なぬし」と呼ばれるようになったと考えられます。おそらくは昔の名残だったのでしょう。
> 労役奉仕・・簡単に袖の下などに入れるもので無いという事が好感が持てる制度ですね?w
労働の内容にもよると思われます。仮に朝から晩まで休みなくこき使われるとすれば、「袖の下」の方がマシかもしれませんし。物納だろうが肉体労働だろうが、いつの時代も「喜んで負担する」税というのはなかなかないものかなのかもしれません。
このままいくと荘園だらけ?
オバrev この頃の荘園と公領の割合というのはどのくらいだったんでしょうか。
想像では、荘園の方が多くなったような気がします。
そして荘園の増加と伴に、朝廷の実質的な力は衰えていったんでしょうね。
金の切れ目が縁の切れ目という諺もありますし・・・
しかしこのままいくと、荘園だらけですが、実際はどうだったんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この頃の荘園と公領の割合というのはどのくらいだったんでしょうか。
> 想像では、荘園の方が多くなったような気がします。
はっきりとした割合は分かりませんが、明らかに荘園の方が多いですね。それも摂関家の分が圧倒的です。
> そして荘園の増加と伴に、朝廷の実質的な力は衰えていったんでしょうね。
> 金の切れ目が縁の切れ目という諺もありますし・・・
摂関家が平等院鳳凰堂のような豪華な建築物を建てる実力がある一方で、朝廷は門の修理すらできなかったというエピソードが残っていますからね。まさにお言葉どおりです(´・ω・`)
> しかしこのままいくと、荘園だらけですが、実際はどうだったんでしょうか。
確かにこのままでは…ですが、摂関家の天下はいつまでも続くかどうか、ということがカギを握ることになると思います。
う~ん。。。
JJSG こんばんは。
やっぱり難しいかも。。。
教科書読んでるみたいでした!(笑)
JJSGさんへ
黒田裕樹 > やっぱり難しいかも。。。
> 教科書読んでるみたいでした!(笑)
申し訳ありませんm(_ _)m
出来る限り分かりやすさを心掛けてはいるのですが、高校の日本史レベルを基調としている関係もあって、時々は今回のようにどうしても語句が中心の内容になってしまうんですよ。
次回(10日)からは単元がかわりますので、少しは理解しやすくなるかもしれません。今後ともよろしくお願いします。
ぴーち 私、ちょっと勘違いをしてしまいました^^;
納税の話だったんですもんね(><)
現物の方が、判り易くて良いという単純な解釈をしてしまいました^^;
失礼しました~。。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、お気になさらずに。
私もぴーちさんをはじめとする他の皆様の記事の中味を勘違いしてコメントすることはよくありますから(笑)。
今後も気楽にコメントしてくださいね(^^♪
昔は「名主」(みょうしゅ)という音読みで呼ばれていたんですね。「名主」を(なぬし)と呼ばれるようになったのは、ずっと後なんでしょうか?それとも、よく時代劇などで話されている言葉は、現代人でも容易に理解出来るように、その当時に使われていた言葉は極力判り易く、編集されてしまってると聞いた事があるので、そういう習いで行くと、なぬしという読み方は、元々存在しなかったのでしょうか・・。
労役奉仕・・簡単に袖の下などに入れるもので無いという事が好感が持てる制度ですね?w
それでは、応援凸
平安時代に成立した名主(みょうしゅ)は、その後も地位を維持してきましたが、室町時代の守護大名やその後の戦国大名が強い軍事力などで領国を支配するようになると、その力は次第に衰えていきました。
しかし、各地の村落としての自治能力は残っていたので、江戸時代の幕府や各藩は旧名主層を指導者として、ある程度の自治を任せました。指導者は西日本では庄屋と呼ばれましたが、東日本では名主(なぬし)と呼ばれるようになりました。
以上のことから、はっきりとした時期は分かりませんが、遅くとも江戸時代の頃には「みょうしゅ」が「なぬし」と呼ばれるようになったと考えられます。おそらくは昔の名残だったのでしょう。
> 労役奉仕・・簡単に袖の下などに入れるもので無いという事が好感が持てる制度ですね?w
労働の内容にもよると思われます。仮に朝から晩まで休みなくこき使われるとすれば、「袖の下」の方がマシかもしれませんし。物納だろうが肉体労働だろうが、いつの時代も「喜んで負担する」税というのはなかなかないものかなのかもしれません。
想像では、荘園の方が多くなったような気がします。
そして荘園の増加と伴に、朝廷の実質的な力は衰えていったんでしょうね。
金の切れ目が縁の切れ目という諺もありますし・・・
しかしこのままいくと、荘園だらけですが、実際はどうだったんでしょうか。
> 想像では、荘園の方が多くなったような気がします。
はっきりとした割合は分かりませんが、明らかに荘園の方が多いですね。それも摂関家の分が圧倒的です。
> そして荘園の増加と伴に、朝廷の実質的な力は衰えていったんでしょうね。
> 金の切れ目が縁の切れ目という諺もありますし・・・
摂関家が平等院鳳凰堂のような豪華な建築物を建てる実力がある一方で、朝廷は門の修理すらできなかったというエピソードが残っていますからね。まさにお言葉どおりです(´・ω・`)
> しかしこのままいくと、荘園だらけですが、実際はどうだったんでしょうか。
確かにこのままでは…ですが、摂関家の天下はいつまでも続くかどうか、ということがカギを握ることになると思います。
やっぱり難しいかも。。。
教科書読んでるみたいでした!(笑)
> 教科書読んでるみたいでした!(笑)
申し訳ありませんm(_ _)m
出来る限り分かりやすさを心掛けてはいるのですが、高校の日本史レベルを基調としている関係もあって、時々は今回のようにどうしても語句が中心の内容になってしまうんですよ。
次回(10日)からは単元がかわりますので、少しは理解しやすくなるかもしれません。今後ともよろしくお願いします。
納税の話だったんですもんね(><)
現物の方が、判り易くて良いという単純な解釈をしてしまいました^^;
失礼しました~。。
私もぴーちさんをはじめとする他の皆様の記事の中味を勘違いしてコメントすることはよくありますから(笑)。
今後も気楽にコメントしてくださいね(^^♪