しかし、満州での権益を得られなかったアメリカは、この件を境に我が国への態度を硬化させ、翌1906(明治39)年にはサンフランシスコで日本人学童排斥(はいせき)事件が起きるなど、日本からの移民に対して厳しい政策を行うようになりました。
我が国に対して敵意を持つようになったアメリカは、この頃から日本を仮想敵国とみなし、やがては「オレンジ計画」という名の戦争計画を立案するようになるのです。
果たして我が国はハリマンの申し出を受けいれるべきだったのでしょうか。少なくとも、いわゆる「ハリマン問題」によって一度こじれた日米関係が、その後も好転することがなかったことだけは間違いありません。
また、単なる日米両国間の関係のみならず、この後の世界における日米の立場も微妙に変化していったのも事実であり、そのきっかけとなったのが「第一次世界大戦」でした。
※下記の映像は4月10日までの掲載分をまとめたものです。





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ぴーち こんばんは!
そうですね。。
それでも
いづれ
遅かれ早かれアメリカがこういう傲慢な
態度を改めなければ
日本との対立は避けられなかった事だと
思います。
例えば、ある男が気の優しい友人に借金を願い出て
貸してくれるだろうとある程度踏んでいたものの、
思わぬ誤算から断られたとして、それを恨みに
その友人を脅したり、襲撃したりしたら、それは立派な犯罪行為になると同じように、
その時のアメリカの考え方、態度は
間違っていたと思います。
そもそも、自国が乗り遅れてしまった事に対して
なんの反省もせずに、後から
横取りする様な邪さ。
更に自分の至らなさを認めず、今度は他国に
責任をなすりつけるなど、言語道断!気に入らないですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えは、日本人として至極当然のことです。
ところが、それに比べて世界は余りにも「腹黒い」んですよ。ただ、私自身もここでアメリカに「アメ」をしゃぶらせることが正しかったかどうかは分かりませんが。
いずれにせよ、我が国の命運がどこでどんな分かれ道になるのか、見極めるのは至難の技ですね。
万里ママ 譲るか断るか、難しい決断ですね・・・。
ただ、これによってアメリカがグッと
態度を硬化させた事は間違いないと思います。
外交の大変さ、譲歩すべきかどうかの
難しさを、改めて考えてしまいます。
このように、第一次世界大戦までには、
色々な伏線があったのですね。
万里ママさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、非常に難しい決断だったと思います。
ハリマン問題は結果として日米関係をこじれさせましたが、もし受けいれていれば安定していたかといえば、それも分かりませんからね。
明治時代ですら難しい外交は、大正期にさらに複雑になっていきます。
そうですね。。
それでも
いづれ
遅かれ早かれアメリカがこういう傲慢な
態度を改めなければ
日本との対立は避けられなかった事だと
思います。
例えば、ある男が気の優しい友人に借金を願い出て
貸してくれるだろうとある程度踏んでいたものの、
思わぬ誤算から断られたとして、それを恨みに
その友人を脅したり、襲撃したりしたら、それは立派な犯罪行為になると同じように、
その時のアメリカの考え方、態度は
間違っていたと思います。
そもそも、自国が乗り遅れてしまった事に対して
なんの反省もせずに、後から
横取りする様な邪さ。
更に自分の至らなさを認めず、今度は他国に
責任をなすりつけるなど、言語道断!気に入らないですね。
ところが、それに比べて世界は余りにも「腹黒い」んですよ。ただ、私自身もここでアメリカに「アメ」をしゃぶらせることが正しかったかどうかは分かりませんが。
いずれにせよ、我が国の命運がどこでどんな分かれ道になるのか、見極めるのは至難の技ですね。
ただ、これによってアメリカがグッと
態度を硬化させた事は間違いないと思います。
外交の大変さ、譲歩すべきかどうかの
難しさを、改めて考えてしまいます。
このように、第一次世界大戦までには、
色々な伏線があったのですね。
ハリマン問題は結果として日米関係をこじれさせましたが、もし受けいれていれば安定していたかといえば、それも分かりませんからね。
明治時代ですら難しい外交は、大正期にさらに複雑になっていきます。