兄弟同士の骨肉の争いに勝った藤原兼家は、娘を次々と天皇の妃(きさき)として送り込んで政治の実権を握りました。兼家の死後は長男の藤原道隆(ふじわらのみちたか)が摂政・関白になりましたが、道隆の死後は、子の藤原伊周(ふじわらのこれちか)と道隆の弟である藤原道長(ふじわらのみちなが)との間で同じような勢力争いが繰り広げられました。
こうした藤原氏同士の争いを最終的に制した藤原道長は、4人の娘を天皇の妃として、自らは第68代の後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の摂政となりました。道長は約30年にわたって権力を握り続けましたが、彼が絶頂期の頃に詠(よ)んだとされる「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌はあまりにも有名ですね。
余談になりますが、藤原兼家の妻の一人は「蜻蛉日記」(かげろうにっき)で有名な藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)です。小倉百人一首(53番目)では「右大将道綱母」として紹介されていますね。さらに、藤原道綱母の妹の娘、つまり姪(めい)は「更級日記」(さらしなにっき)の作者である菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)であり、菅原孝標女はその名のとおり、菅原道真の血を引いています。




いつも有難うございます。
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らいと はじめまして。
藤原氏は栄華を築きましたが、その陰には激しい争いがあったのですね。
菅原道真は須磨の神社に学問の神様として祭られているので親しみがあります。
わかりやすい歴史の記事です。
これからも楽しみにしています!
らいとさんへ
黒田裕樹 > はじめまして。
> 藤原氏は栄華を築きましたが、その陰には激しい争いがあったのですね。
ようこそお越し下さいました(^^♪
ほんの一握りの栄光の陰には、激しい勢力争いがあるのがこの世の常でもありますね。藤原氏のような勢力争いを振り返るたびに思い知らされます。
> 菅原道真は須磨の神社に学問の神様として祭られているので親しみがあります。
須磨の綱敷天満宮のことですね。源氏物語の一節と上手くミックスさせていることでも有名です。道真公を祭った社は全国各地にありますね。
> わかりやすい歴史の記事です。
> これからも楽しみにしています!
お言葉、励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。
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ayumi はじめまして。
ご訪問ありがとうございました!
さっそく遊びにきちゃいました。
お名前だけはアキさんたちのブログでは知ってはいましたが、なんと歴史の先生でいらしたのですね~
学生時代は理数系を愛していたワタクシ
歴史には詳しくありませんが、歴史小説は好きです。(全然ちがうか)
改めてこうやって聞くと実際の歴史も小説のようにドラマチック。
なかなか面白いものですね。
また遊びに来ます。応援ポチ☆
ayumiさんへ
黒田裕樹 > はじめまして。
> ご訪問ありがとうございました!
> さっそく遊びにきちゃいました。
> お名前だけはアキさんたちのブログでは知ってはいましたが、なんと歴史の先生でいらしたのですね~
ようこそお越し下さいました(^o^)丿
ハイ、現在は別の職務に就いておりますが、一応(笑)歴史の元・教師です。
> 学生時代は理数系を愛していたワタクシ
> 歴史には詳しくありませんが、歴史小説は好きです。(全然ちがうか)
> 改めてこうやって聞くと実際の歴史も小説のようにドラマチック。
> なかなか面白いものですね。
歴史小説がお好きであれば、実際の歴史にもすんなりと入っていけますよ。
仰るとおり、本物の歴史はまさにドラマチックですから、理解さえできれば本当に面白いんです。私はこのブログを通じて、一人でも多くの方に歴史に興味を持っていただけますよう「分かりやすい」内容の更新を目指して続けているんですよ(^^♪
> また遊びに来ます。応援ポチ☆
応援有難うございます。また是非いらして下さいm(_ _)m
名前
オバrev この頃の女性の作者については、本人の名前を直接言わないのが通例なんですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この頃の女性の作者については、本人の名前を直接言わないのが通例なんですかね?
平安当時の女性は、皇族か任官でもされない限りは公式の記録に名前が残ることは滅多にありませんでした。そもそも当時の女性の名前を知ることは、その女性を自分のものとしているも同然と考えられるほど重要なことだったのです。
従って、今回紹介した藤原道綱母や菅原孝標女の場合は、本名が記録に残っていないので分からなくなっているのです。また、清少納言や紫式部も本名は分かっていません。ちなみに紫式部の娘は後冷泉天皇の乳母となったことで任官を受けたので、大弐三位(だいにのさんみ)という通称とともに藤原賢子(ふじわらのけんし、または「かたいこ」)という本名が記録に残っています。
お久しぶりです
徳薙零己 藤原道長が摂政になるまでを描いた「源氏物語の時代」が完結しました。
本作についての資料をまとめ、文章を書き記せば記すほど驚かされたのが、藤原道長の政治に対する姿勢です。
自分を批判する言論であろうと全て認め、自分を容赦なく罵倒する貴族であろうと、その人は有能であると判断したら、その人の才能を認め役職を用意し、責任は全て道長が引き受けた上で役職に専念させていたこと。これができる政治家が果たして何人いたでしょうか。
現在でもそのまま適用できそうな言論の自由を確立させた上で藤原道長が為してきたことこそ、安定と平和、そして豊かな暮らし。歴史上の有名人物であるため小学生向けの伝記マンガの常連である藤原道長ですが、政治家としての藤原道長が何をしたのかをとりあげている作品は少ないです。
それは、藤原道長が目を見張るような改革を為した政治家だからではなく、安定と平和のために尽力し続けてきた結果だというのが、「源氏物語の時代」、そして、6月から公開する「欠けたる望月」を終えた上での私の結論です。
政界引退と同時に刀伊の入寇が起こり、死と同時に平忠常の乱が発生し、その後の混迷につながってしまったのも、源氏物語の時代の日本が藤原道長という個人の能力に寄っていた結果。藤原道長自身は自分がいなくなった後も安定したシステムを作り上げたはずであったのに、気がつくと道長がいることを前提とした日本国になってしまったというのが,今の私の考えです。
藤原道長が摂政になってから、摂政を辞し、頼通政権が成立して平忠常の乱までを、6月から「欠けたる望月」として公開致します。
おてすうではございますが、よろしければお立ち寄りください。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
なるほど、道長にはそういった側面もあったんですね。
新たな作品に期待しています。
藤原氏は栄華を築きましたが、その陰には激しい争いがあったのですね。
菅原道真は須磨の神社に学問の神様として祭られているので親しみがあります。
わかりやすい歴史の記事です。
これからも楽しみにしています!
> 藤原氏は栄華を築きましたが、その陰には激しい争いがあったのですね。
ようこそお越し下さいました(^^♪
ほんの一握りの栄光の陰には、激しい勢力争いがあるのがこの世の常でもありますね。藤原氏のような勢力争いを振り返るたびに思い知らされます。
> 菅原道真は須磨の神社に学問の神様として祭られているので親しみがあります。
須磨の綱敷天満宮のことですね。源氏物語の一節と上手くミックスさせていることでも有名です。道真公を祭った社は全国各地にありますね。
> わかりやすい歴史の記事です。
> これからも楽しみにしています!
お言葉、励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。
ご訪問ありがとうございました!
さっそく遊びにきちゃいました。
お名前だけはアキさんたちのブログでは知ってはいましたが、なんと歴史の先生でいらしたのですね~
学生時代は理数系を愛していたワタクシ
歴史には詳しくありませんが、歴史小説は好きです。(全然ちがうか)
改めてこうやって聞くと実際の歴史も小説のようにドラマチック。
なかなか面白いものですね。
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> ご訪問ありがとうございました!
> さっそく遊びにきちゃいました。
> お名前だけはアキさんたちのブログでは知ってはいましたが、なんと歴史の先生でいらしたのですね~
ようこそお越し下さいました(^o^)丿
ハイ、現在は別の職務に就いておりますが、一応(笑)歴史の元・教師です。
> 学生時代は理数系を愛していたワタクシ
> 歴史には詳しくありませんが、歴史小説は好きです。(全然ちがうか)
> 改めてこうやって聞くと実際の歴史も小説のようにドラマチック。
> なかなか面白いものですね。
歴史小説がお好きであれば、実際の歴史にもすんなりと入っていけますよ。
仰るとおり、本物の歴史はまさにドラマチックですから、理解さえできれば本当に面白いんです。私はこのブログを通じて、一人でも多くの方に歴史に興味を持っていただけますよう「分かりやすい」内容の更新を目指して続けているんですよ(^^♪
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平安当時の女性は、皇族か任官でもされない限りは公式の記録に名前が残ることは滅多にありませんでした。そもそも当時の女性の名前を知ることは、その女性を自分のものとしているも同然と考えられるほど重要なことだったのです。
従って、今回紹介した藤原道綱母や菅原孝標女の場合は、本名が記録に残っていないので分からなくなっているのです。また、清少納言や紫式部も本名は分かっていません。ちなみに紫式部の娘は後冷泉天皇の乳母となったことで任官を受けたので、大弐三位(だいにのさんみ)という通称とともに藤原賢子(ふじわらのけんし、または「かたいこ」)という本名が記録に残っています。
本作についての資料をまとめ、文章を書き記せば記すほど驚かされたのが、藤原道長の政治に対する姿勢です。
自分を批判する言論であろうと全て認め、自分を容赦なく罵倒する貴族であろうと、その人は有能であると判断したら、その人の才能を認め役職を用意し、責任は全て道長が引き受けた上で役職に専念させていたこと。これができる政治家が果たして何人いたでしょうか。
現在でもそのまま適用できそうな言論の自由を確立させた上で藤原道長が為してきたことこそ、安定と平和、そして豊かな暮らし。歴史上の有名人物であるため小学生向けの伝記マンガの常連である藤原道長ですが、政治家としての藤原道長が何をしたのかをとりあげている作品は少ないです。
それは、藤原道長が目を見張るような改革を為した政治家だからではなく、安定と平和のために尽力し続けてきた結果だというのが、「源氏物語の時代」、そして、6月から公開する「欠けたる望月」を終えた上での私の結論です。
政界引退と同時に刀伊の入寇が起こり、死と同時に平忠常の乱が発生し、その後の混迷につながってしまったのも、源氏物語の時代の日本が藤原道長という個人の能力に寄っていた結果。藤原道長自身は自分がいなくなった後も安定したシステムを作り上げたはずであったのに、気がつくと道長がいることを前提とした日本国になってしまったというのが,今の私の考えです。
藤原道長が摂政になってから、摂政を辞し、頼通政権が成立して平忠常の乱までを、6月から「欠けたる望月」として公開致します。
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なるほど、道長にはそういった側面もあったんですね。
新たな作品に期待しています。