秀吉の死後、徳川家康と秀吉の家臣であった石田三成(いしだみつなり)とが対立し、両者は1600年に関ヶ原で激突しました。このとき毛利輝元は三成率いる西軍の総大将に祭り上げられ、大坂城に入城しましたが、関ヶ原の戦いで彼が動くことはありませんでした。
実は、毛利家の一族であった吉川広家(きっかわひろいえ)が、家康率いる東軍に通じていたのです。広家は輝元が大坂城から出陣させないように工作するとともに、自軍は関ヶ原で一切動かずに不戦を貫きました。
広家による努力の甲斐あって(?)西軍が敗退して東軍が勝利すると、広家は家康から「毛利家の本領安堵(ほんりょうあんど、領地をそのまま保障すること)」の約束を取り付けました。
広家の工作を戦後に知った輝元は、怒るどころか本領安堵の約束をむしろ喜び、家臣の「大坂城に留まって戦うべきだ」との声を無視して、大坂城を「無傷で」明け渡したのですが、これがとんでもない大失敗でした。
家康は輝元が大坂城を明け渡した途端に、それまでの温和な態度を一変させ、手のひらを返したように「毛利家の領地没収」を宣言したのです。この時になって輝元ばかりでなく広家も含めて、自分たちが家康にだまされていたことに初めて気がついたのですが、後の祭りでした。




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